九月の断章

日々の研究や日常から感じたり考えたりしたことを綴っています。

ファシズムの体験学習に行ってきた話

2018年6月14日木曜日、天気はおおむね晴れ──
東京の大学院生である私は、神戸・三宮に降り立った。
この日、甲南大学の「社会意識論」という講義で行われる、「ファシズムの体験学習」に参加するために、はるばる神戸までやってきたのであった。

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2年ほど前からこの試みについては聞いていて、ぜひ行ってみたいと思っていた。

そしてついに今年、講義を担当する田野大輔先生がSNSで発信していた情報↑(出典:Daisuke Tano (@tanosensei) | Twitter)を頼りに、伺うことができたのだった。
田野先生は、ドイツ現代史研究者であり、とくにナチ・ドイツを扱っている。

 

参加の理由は二つ。
私自身は、大学院生としてドイツの近現代史を専攻しているので、ドイツ現代史においても重要な現象であるファシズムをどう理解(体験)できるのかという点に興味があったこと。
もう一つは、今年から平和教育学についても学び始めたので、ファシズムの問題は教育の観点からどのように教えることが出来るのか、という点。

この体験学習は、2010年から現在2018年まで毎年実施されているそうだ。2013年には日本社会学会で学会報告も行われており、授業の詳細はこちら(http://www.gakkai.ne.jp/jss/research/86/396.pdf)から確認できる。
上記資料によれば、「普通の人間が残虐な行動に走るのはなぜか」を考えることをテーマとした講義である。

 

さて、そろそろ実際に参加した授業の流れをレビューしていこう……
と思うが、

 

その前に

この日、受講者の体験する「ファシズム」とは一体何なのか?

読者の皆さんもこの単語を聞いたことのある人がほとんどだ(からこそ興味をもってこの記事を開いてくださったか)と思うが、今一度その定義を辞書で確認してみた。
いくつか辞書を引いてみたが、重要な点が簡潔にまとまっていると思われた百科事典マイペディア(平凡社)の「ファシズム」の項目を見ると、
広義には20世紀の全体主義的・国家主義的独裁の運動理念,支配形態
とある。(参照:ファシズムとは - コトバンク

 

つまり簡単にまとめれば、ファシズムとは、全体主義や独裁的な支配体制のことであり、この講義ではそれがどのように成立しているのかを「体験的に」学べるということになる。
この体験学習も、とくに受講生の意識の変化を観察するために、ファシズムについて説明しながら進行していった。
したがって体験学習中、受講生の意識は全体へ完全に取り込まれてしまうわけではなく、客観的に自分のことを観察・分析することも同時に求められており、私もその心づもりで臨んでいる。
しかし振り返りながらではあるが、体験学習中に主観的に感じたこともなるべくそのまま、ライブ感ある記述をしていこうと思う。

では、いよいよ実際の体験学習の流れを追っていこう。

 

体験学習の流れ

①教室に集合

まず、教室に集合する。到着すると、みんな同じく白いシャツを着用している。
しかもシャツはズボンにイン。
すごい、ほんとにみんな同じ格好だ……
と、やってきてまず思ったが、
よく考えてみれば中学高校では制服を着ていたので、だったら学校の制服には何の意味があるのかと一瞬疑問が頭をよぎる。

 

②掛け声と行進の練習
授業が始まり、まずやったのは、掛け声と行進の練習。

  • (号令 →全員で掛け声/行進)
  • さんはい →「ハイル・タノ」
  • せーの  →「リア充爆発しろ」
  • 1・2  →右・左 (行進)

シュプレヒコールは、田野先生の号令に合わせ、右手を伸ばして声に出す。
もっと大きい声で、という指示もあり、声がよく出ている男子学生が褒められていた。
行進の練習では、足並みがバラバラにならないよう揃えることをあらかじめ注意される。

あとで考えてみれば、こうした細かい指示や模範の表彰も、規範を形作っていると言える。


ファシズムのしくみ説明
先に述べたように、受講生は参加と同時に自分の意識の変化を観察することも求められている。さらに、ファシズムの構造についての理解を促すために、田野先生が次のことを解説する。

  1. 指導者の存在

  2. 共同体の力(一時的なもの)…自発性・主体性、規律・団結

  3. 共同体の力の可視化・永続化

「指導者の存在」を支えるのが「共同体の力」であり、一時的なものでしかない「共同体の力」を維持するのが「共同体の力の可視化・永続化」であるという。
そこでこの体験学習でも、共同体の力を可視化・永続化するものが設定された。

  • 制服:白シャツ・ジーパン
  • シンボル:擬似民主的に決定、みんなで作成
  • 名称:田野帝国
  • 外部の敵、共通の目的→リア充の糾弾

この体験学習の面白いところは、まさにこれらの成立要素を擬似的に作り出すところにあるだろう。

というわけで、次にまだ決まっていないシンボルとして、ロゴマークを作ることになるが、
その前に、田野先生の解説中にちょっとしたハプニングが発生する。
「そこのアロハシャツみたいの着てるやつ、うるさいから横の二人が前に連れてくるように」
田野先生のお達しによって、柄のシャツの学生が教室の前に連れ出され、「私は田野総統に抵抗しました」と書かれたプラカードをかけられて、あっという間に反乱分子の烙印が押された。ちなみにサクラと思しき学生は3人とも男子。それでも、一応ちゃんと教室は静まり返って緊張感が漂う……。
さきほど模範的な学生が褒められていたが、今度は怒られる学生が出てくることで、規範が強められたようだ。まさに飴と鞭という感じ。

 

ロゴマーク制作
田野先生提案の三つのデザインから拍手で投票。
デザインはこんな感じ。

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田野帝国ロゴマーク



「自分が胸に付けたいと思うやつを選んでください」

とのことで、いよいよ投票……

 

 

 


みなさん選びましたか?

 

 

投票結果は……

 

 

 

 

 

 

 

 

Aです!

そしてみんなで選んだこのロゴマークAをガムテープに書いて、ワッペンのようなものを作っていく。
このロゴマーク制作の時間も授業内でわりと時間をとったんじゃないかと思うのだが、先ほどの反乱分子くんと彼を取り押さえる二人がガムテープのカットを任され、田野帝国の学生たちは並んでそのガムテープを受け取って、自分でロゴを書いていった。
基本的にみんな言われた通りに動くので効率的だし、かなり一体感のある作業であったように感じられた。たぶんみんな早く作業を終わらせて次のステップなりリア充の糾弾へ移りたいだろうし。
そして私自身作業した際には、自分の手でロゴマーク制作するという、「田野帝国への主体的参加へのプロセスをここで踏んでいる」実感を伴っていた。

 

⑤グラウンドで行進
さて、いよいよ教室からグラウンドへ移動。
人が集まってきちんと並ぶあいだに、ちょっと緊張感は緩んだような感じ。
今日は取材のため撮影スタッフがいたからかもしれないが、後ろの方へ並ぼうとする人が多く、並ぶのに時間がかかったみたい。もしかしたら、このときグダってなかなか並ばないでいる様子にイラっとした人もいたかもしれない。
また、グラウンドの周囲の少し高くなってるところや向かいの建物の窓にギャラリーが集まっていて、自分たちが「見世物」のようになっていることにもびっくり。たしかに変な集団だし……。
そして田野先生から、みんな恥ずかしいかもしれないけど個人個人は見られてないんだよ、ともアナウンスされ、たしかに……とも思う。とすると、変なことを集団でやっていても、自分が個人として目立っている訳ではないのである。

結局田野先生の指示があってようやく並び終わり……

さあ、いざ行進へ!
ピッピッという笛のリズムに合わせて、列の先頭から進んでいく。
自分の列が動き始め、とりあえず、前や横の人と足並みをそろえようと頑張る。
終わりの方でリズムが一定にならず足踏みがずれたりして気になったけれど、やはりこれは全体の動きと合わせる作業へ、自分の身体が没入していたのだろうか。


リア充の糾弾
さて行進が終り、田野総統の前に全員が戻ってきた。
最後にもう一度掛け声を練習すると、グラウンド脇のカフェのテラスにリア充の姿が発見された模様。
そして誘導に従って、全員でそのカップルの前へ、囲むようにして移動していく。

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移動する受講生

田野帝国の人びとは人数が多くやはり移動にも時間がかかったが、取り囲まれたカップルにしてみれば怖いだろうな〜と感じる……
(※このリア充役は応募者だそうです。ありがとうございました。)
ようやくこの体験学習のハイライト。
私はかなりノリノリで号令を待っていた。

 

「せーの」


「「「リア充爆発しろ!!!!!」」」

 

白シャツ・ジーパンにインの田野帝国の人びと(、そしてわたし)は、ひたすら続く「せーの」という掛け声に合わせ、「リア充爆発しろ」の糾弾に力が入る。しかも、5、6回とかじゃなく、軽く10回以上(20回近く?)は叫んでいて、けっこう時間も体力も使う。
そして二組のカップルは退散し、目的を達成した拍手が起こる。

さらにもう一組のカップルを見つけ、グラウンド脇の高くなっているところへまた移動。今度はなかなかまわりの人たちが詰めないので、号令が始まらなくて、私は「ちゃんと早くみんな前へ詰めてほしいな」と思ったことを白状します。
そしてさっきより自分の位置は中心から遠くなっており、カップルの姿がぜんぜん見えないまま糾弾スタート。

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リア充を取り囲む

が、これもよく考えたら、よく対象が確認できないまま、まわりの掛け声に合わせて自分も叫んでいるわけで、それってけっこう怖い現象なのではないか、と改めて思う。
しかも、中心近くにいる人はごく一部で、ほとんどの人は自分たちが糾弾している相手を見ることなく集団での行為に参加している。いま考えると恐るべき現象の中にいたのではないだろうか。

さて目的を達成した田野帝国の人びとは教室へ戻る。
その帰り道にほかの受講生の話が聞こえてくる。
その中でも「カップルがかわいそうだった」という声が。わたしはこの意見を聞いて、自分が今まで明確な罪悪感を感じずにいたことを自覚。

しかし罪悪感に自覚的でなかったといっても、まったく罪悪感がなかったわけではなく、むしろほかの受講生と同様に「悪いこと」をしているという意識がうすうすあったとしても、それを覆い隠すような高揚感を感じられてしまうというところがファシズムの怖いところなのかもしれない。

 

⑦ミニレポート
暑くなってきた外の陽気から教室へ戻って、受講生はミニレポートとして感じたことを簡単に書いて提出して、本日の体験学習は終了。
おそらく、この時私が書いたものと、改めて書いたこのレビューとでは、後から気づいた点も含めてかなり違う内容になっている気がしている。

 

 

 

感想


1、没入感の段階的な増加


これは体験学習直後のミニレポートにも書いたのだが、全体を通してだんだん没入感が増してくるように感じられたことはやはり重要だと思われる。
というのも、ファシズムを構成する様々なプロセスを経ることによって、ファシズムを「擬似的に」でも体験する、より直截的に言えば、「作り出す」こともできるということの実証になるからだ。
もちろんそれにはこの体験学習が非常に練られていること、また受講生の暴走がないよう田野先生が注意を払っていることも大きく関係していると思われる。

 

2、制服と非民主的性質?──教育学の観点から


大学なのに教室が白い!

なんて最初は本当にみんなが同じシャツを着てきてることにびっくりしたが、制服、しかも白シャツといえば、まさしく日本の多くの中学や高校の制服がそうだったんじゃないかと、学生時代の記憶がよみがえる。

ちょっと話はずれるが、校則について少しだけ触れてみたい。学校の制服は校則で決められているわけだが、教育学では校則の研究もされている。例えば、『「校則」の研究』(1986年、三一書房)の著者である坂本秀夫は、自分たちの人権を自分たちの力で守ろうという姿勢を校則が根底から突き崩している点に注目し、基本的人権の視点から校則を分析している。管理主義は「教育の死」を意味するとし、事例から校則による生徒の無権利状態を明らかにしようとした。つまり、校則には生徒や親も無権利状態にするような非民主的性質があると考えられる。このような研究がなされた背景は、1980年代後半から1990年代前半にかけて、学校の問題として「管理教育」が議論を呼んだことにある。愛知県のある学校では校則で下着の色を白に決めており、修学旅行の前に生徒に荷物を持ってこさせて下着の色を確認したことが、校則が問題化された発端となったらしい。中でも「西の愛知、東の千葉」と呼ばれた両県では、"変な校則"もとい「管理教育」がとくに強く行われていたという。
ちなみにわたしの出身中学は千葉の公立校で、やけに厳しい校則や取り締まりがあり、当時から全く理解できなかったことが印象に残っている。対して高校は私立校で、そこまで厳しい締め付けはなかった。
そういえば、昨年2017年にも大阪府の高校での髪の黒染め強要が批判され、校則の非寛容性・非多様性が話題になったことが思い出される。また、最近ではTwitterでも下着の色の白指定という校則について、薄い色の方が透けるのはないかという指摘が議論を呼んでいた。
校則の厳しさや生徒への対応は学校によって異なるだろうが、ある程度の集団行動を要求する学校という場には、制服に象徴されるような個々人の自由を制限する規範や全体性が見え隠れするのかもしれない。

さて話は戻って、ファシズムの体験学習の下敷きとなっている映画『THE WAVE ウェイヴ』でも触れられているように、制服は学校だけでなく様々な団体を示すものとして、また一体感を醸成するものとして、多くの場や集団で用いられている。もちろんそのことが直接的にファシズムにつながるわけではなく、もう一つ、後述する重要な要素がファシズムにはある。しかし共同体を可視化する要素も使い方によっては、ファシズムの構成要素として機能することは認識されるべき点だろう。

 

 

3、「リア充の糾弾」という共通目的?──ファシズムは何が危険なのか


ファシズムの体験学習では、リア充の糾弾という共通目的が設定された。しかし実際のところ、これを達成したところで、参加者に何かメリットがあるわけでもない。むしろ、もっと希望ないし魅力になるような、あるいは正義に通じるような目的であれば、もしかしたらより強力な全体主義への参加の積極的動機になるのではないだろうか?

この点について、田野先生がファシズムの体験学習を始めた初期の頃には、「正義」にも通じる喫煙者の糾弾を行っていたようである。しかしその後、なぜ糾弾の対象をリア充にするようになったのだろうか。田野先生に直接伺ってみた。

 

「両義的な感情」


田野先生によれば、それにも狙いがあるとのこと。
喫煙者を糾弾する場合は、喫煙それ自体がルール違反なので、受講生は自分のしていることに疑問を持たなくなるという。それに対し、リア充を非難することは、実際に受講生の感想にもあるように、自分が悪いことをしていると自覚しつつも、普段のルサンチマンを発散できて楽しいという両義的な感情を抱くことになる。さらに、こうした両義的な感情はナチ時代にユダヤ人を迫害したドイツ人の感情により近いのではないか──というのが、田野先生の分析だ。
リア充の糾弾」という共通目的の設定は、よりリアルな追体験を狙って行われている。
これは田野先生の学会報告PDFでの結果①「集団の力の実感」と重なる点である。

 

「責任感の麻痺」


さらに重要なファシズムの構成要素として、田野先生は②「責任感の麻痺」を指摘している。「責任感の麻痺」とは、集団での行動に加え、上からの命令があることによって、一人ひとりが適切な判断をしなくなり、無責任な行動に出てしまうということである。
もともとこのファシズムの体験学習は「社会意識論」という授業の一環であり、私は受講していないが、半期の授業では監獄実験やミルグラム実験における「権威への服従」の仕組みについての学習が行われている。
田野先生によれば、これらの実験では、服従者が「上からの命令に従っているだけの道具的状態」となって、自分の行動の結果に責任を感じなくなる働きが明らかになったという。
上、つまり権力からの命令に従えば、罰せられずにその権力あるいは暴力を振りかざすことができる。

したがって、一般的に抑圧的だと考えられるファシズムは、実は服従する当事者にとっては主観的には高揚感や解放感を感じられる「楽しい」経験であったかもしれないと田野先生は指摘している。

 

ファシズムの危険性


まとめると、1、正義を掲げるという分かりやすさよりも「悪いこと」でも集団ならできてしまうという両義性がファシズムの問題の難しさの一つだと考えられる。

2、さらに、権力からの命令に従うことで、当事者は限定的な権力を振りかざす解放感を感じながら、そうした人道に反するような暴力的な行為に駆り立てられる点も重要だということが分かる。

また、権力の下す命令が、ある社会の正義あるいは規範といった価値観を形成しようとする場合、「悪いこと」だったはずの自分の行動に疑問を感じないようになっていくかもしれない。
この点に関して、田野先生の学会報告PDF③では、自分の行動への恥ずかしさや違和感などが次第に消え、義務感のようなものが生じる点が指摘されている。
それだけでなく、罪悪感が薄れていく側面にも注目すれば、権力が与える正当性(正統性)によって暴力を振りかざすシステムが構築されていることが見えてくる。

このように、人道に反するような暴力的な行為でも可能にするシステムこそがファシズムの危険性であり、このことを体験学習とそれまでの事前学習を通じて認識することがこのプログラムの重要な点だと言える。

 

 

おわりに──ファシズムの危険性を学ぶこと


ナチ・ドイツのファシズム体制では、暴力やテロルによって「共同体」の「異分子」を排除しようとした。なぜナチスの暴力や大量虐殺を止められなかったのかと言えば、ひとつにはドイツ国民が体制に反対することは死の覚悟をも意味し、極めて困難だったことが挙げられる。
第二次世界大戦下の日本でも、体制への反対の難しさという意味では同じような状況があったと言えるだろう。
共同体の異分子を暴力的に排除しようとするファシズムは、結局は人々が反対することすら困難にする。ここにもう一つのファシズムの問題点、発生した場合に乗り越えることが困難になる理由があるのではないだろうか。
だからこそ、ファシズムの危険性を我々は認識し、ファシズムが生み出されないような社会を作っていく必要があることは言うまでもない。
平和教育学の観点から見ても、歴史学を学ぶ意味の一つはこのような社会や未来への示唆を得ることにある。
それだけでなく、その怖さを身をもって学ぶことのできるこの体験学習は、ファシズムの危険性を認識する上で有用であり、価値のある試みなのではないだろうか。
私は実際にこの学習での体験をまずはここに書くことで、リアリティを持ってファシズムの怖さ、何が危険なのかということを伝えたり、いろんな人と考えていきたいと思っている。

 

 

なお、このファシズムの体験学習の様子はほかに、以下に挙げた田野先生による論考や、朝日新聞の記事からも参照されたし。