九月の断章

日々の研究や日常から感じたり考えたりしたことを綴っています。

ドイツからの帰国、そして東京で隔離生活へ:コロナ危機下の一ヶ月〈後編〉

2020年、まさかこんなことになろうとは——そう誰もが思っていることかと思いますが、感染の拡大するなか、僕はロックダウンされたドイツに3月末まで滞在していました。

現在は帰国し、その後14日間の要請された自宅隔離期間を終えたところです。

 

ドイツでロックダウンの始まった3月後半から、帰国者として隔離させられていた日本での4月前半までで、一ヶ月が経ったころ、「コロナ危機下の一ヶ月」と題してブログにまとめて記すべく記事シリーズを書き始めました。前回からだいぶ間が開いてしまいましたが、最終回となる今回の記事ではフライトや検疫、そして日本での隔離期間の生活について書いていきます。

 

(*前編となる「ロックダウン下のハイデルベルク:コロナ危機下の一ヶ月〈3月編〉 - 九月の断章」はこちらです。)

(*かなり記憶に頼って書いているので、間違っている記述や、より詳細なソースなどありましたら、教えていただけると幸いです。) 

 

 

★ドイツから日本へのフライト

 

僕はもともと帰国を予定していた3月末の日程をわざわざ変えることなく、のんきに滞在期間の最後となる3月後半2週間を過ごしていました。

3月に入ったころには、”もうすぐ帰国か。早かったな”と思っていたのですが、3月の半ばになると、日本の指定する危険度がドイツは2にあがったことを受けて周囲の留学中やワーホリ中の友人たちがつぎつぎと帰国し始める緊急事態のなかで、むしろ自分の帰国が遅いように感じ、またイベントや出かけることもなくなったので最後の2週間がとても長く感じていました。

帰国に際してとくに直行便だったために、(例えば中国や韓国など、欧州に比べてより早い段階で入国が制限されたり14日間の待機が要請されていたような地域を乗り換えで経由しないので、)キャンセルを考えるとか欠航になったとかのトラブルもなく予定の日を待っていたのですが、出発予定日の4日前、26日にフライトが欠航になる連絡をもらいました。

もともと、ちょうどその時期にドイツの他の都市に滞在していた友人Mと、予定を合わせて帰ろうかと話していたので、その友人Mに相談してまだフライトやってる、かつ、その当時はまだ乗り継ぎが危険度の低い地域だということで、カタール航空を使って、同じ予定日に帰ることにしました。

ちなみに、帰国の予定日を変えなかったのは、こだわっているという訳でもなく、ただ単に変更の必要性をほとんど感じなかったからです。全部オンライン化するならドイツにいてもいいくらいでしたが、その時はまだ日本はそこまで外出制限が進んでいるわけでもなく、そのような思い切った判断もできない状況でした。また逆に、コロナ危機由来の帰らなきゃいけないプレッシャーも特になく、そんなに日本にも帰りたいという訳でもなかったです。ギリギリまでドイツにはいたいけど、できるなら帰るのは3月末までがいいかな、と。保険やビザの関係でも、帰国にちょうどいいタイミングだったのです。

 

そんななか、ついに来ました最後の日。

ドイツを発ったのは3月30日、日本に31日につく予定のフライトでした。

 

フランクフルト空港

 出発するフランクフルト空港はかなり大きな国際空港なので、感染リスクが心配でしたが、思っていた以上に(通常よりは)かなり人が少なかったです。

★手荷物検査に並ぶ列。間隔を開けるように指示されている。(上記ツイートの写真の図解)

 

しかも、手荷物検査やパスポートコントロールの列では、間隔をあけて並ばせられるので、指示に従ったり余計な距離を移動したり待ったりする分、時間がかかるんですよね。飛行機のゲートが開く40分くらい前に並び始めたのに、荷物の検査が終わったのはあとゲート開場まであと10分とかそのくらいギリギリで、しかも僕は警察まで呼ばれて楽器を調べられていました。その間に友人Mには先にゲートまで行ってもらっていて。

 

なんとか楽器も問題なく検査を抜けられることになってゲートに向かうと、途中で長い列が。え、もうゲートの開く時間になるのに、これに並ばなきゃいけないの?と訳がわからなくてその列の先へ向かって走るも、やはりこれは通らなくては進めないらしいことがわかりました。どうやらパスポートコントロールの列らしい。友人Mに電話したら、急いでるって言えば通してもらえるよ、とのことだったので、係のひとに言ったら、もっと早く来るようにしなよと小言を言われつつも、そこに並ぶようにと通してくれました。

それは有難いものの、いや、手荷物検査に時間かかりすぎだし、かかるのは仕方ないとしても、レーン少なすぎだし開ける対応も遅いから!とブチギレそうだったが、とっさにそれを言うだけの英語力がなかったのは残念でした……。(とりあえずドイツ語ではなく英語で話しかけていたので)しかし、その時前に並んでいた韓国人の青年が急いでる僕の様子を見て、先に通してくれたはとても嬉しかったです。

コントロールを通ったときにアナウンスが流れていて、おそらくそれは僕たちの乗る便の案内のようでした。今流れるってことは、まだゲートが開いていなかったんだろうと予想しつつもとりあえず急ぎ目で友人Mの待つゲートへ向かう。

ゲートに着くと、まだ開いていませんでした。ゲートまであまり遠くなかったのは助かりました。友人Mは、ドイツ人の友人と電話していて、僕が着いたのに気づいて「Wir sind geschafft!」(私たちやりきったよ!)と言った台詞が、やけに頭に残りました。ちょうど僕がゲートの前に着いてすぐにゲートが開き、僕たちは無事に飛行機にのることができたのでした。

 

機内

ドーハで乗り換えて、2本の飛行機に乗ったのだが、おそらくどちらも20人も乗っていなかっただろうと思います。そのくらい、機内はガラガラで、人と人との間隔の十分すぎるほどあり、快適でした。

 

ドイツにいることよりも、空港や機内での感染リスクのほうが怖いのではないかと思っていましたが、不要な渡航はおそらくみんなキャンセルしてしまった状況で、そうなると人も少なく間隔は十分開けられているので、あまり心配せずに搭乗することができました。

 

ちなみに、飛行機で見た映画は、「アナと雪の女王」1(ドイツ語視聴)と2(英語字幕・ドイツ語視聴)、「新聞記者」でした。

 

成田空港

 さて、3月31日、17時半過ぎころ、成田空港へ到着。

ドイツからの帰国者はPCR検査されることになっていたので、検疫所へ通されることとなりました。

ドイツですでに、ほとんど人と会ったり、密集することのない生活を2週間ほど送ってからの今回のフライト・帰国だったので、この検疫での状況はかなり不安になるものでした。

まず、検疫所の列に並ぶ際に、間隔を開けるような誘導もなければ、検疫所のスペース内でも、会議室一室に人が20人ほど入っているくらいの人口密度で、対して間隔を開けられないところに4時間以上待たされていました。

 

しかも、現場の検疫官の方々も大変そうだったとは思いますが、そもそも段取りが悪く、説明も不十分だったのが、待機者をとても不安に、あるいはイライラさせていたと思います。

段取りというのは、書類を書いてから検査に移るまでの流れとか、待ち時間の説明が全くないとか、書かせている書類が足りないとか、それぞれの列の並ばせ方を検疫官たちが把握してなくて混乱しているとか。

混乱しているのは待機者のほうよ。

 

しかし、検疫や待機は強制ではないので、必要な資金が援助されることはなく、帰宅手段や自宅待機については、実はグレーな返答・対応がされることもしばしばだったようです。(見聞きした範囲で。)

見た範囲では、お金がないからという理由で電車か何かで、結果が出るまでの待機場所(*以下で説明。私が待った場所)で待たずにすぐ検疫所から帰った人もいました。

公共交通機関を使うなとも「要請」されていたので、それを厳守して帰るには、頼れる知人や家族がいなければ、レンタカーやハイヤーを使うしかありませんが、地方出身者やお金のない人には、ツテとしても資金的にも厳しい状況だったのは間違いないと思います。

 

検疫を抜けたのは21時を過ぎてから。

この頃(私の帰国したころ)にはちょうど、PCR検査の結果がその日のうちには出ないほど混んで時間がかかる状況だったので、さすがに検疫所で一晩~数日待たされるのではなく、政府がホテルを借り上げて待機場所を用意するようになっていました。待機場所が準備される前には、検査の結果待ちのために、その場で雑魚寝したという話もSNSで見かけました。

というわけで、幸いなことに雑魚寝はせずに自衛隊提供のバスで待機場所まで連れていかれることになりました。

 

 

PCR検査待ち待機

私たちの場合のPCR検査の結果待ちについては、1日待っても結果が出なくて、結果を伝えるのはその次の日の朝になってしまうというと聞いていました。なので待機場所には2泊し、3日目の朝に部屋に電話が来て、その日の午前からお昼くらいには、各自なんとか用意したレンタカーや出してもらう車で帰るというスケジュールとなりました。

22時前には待機場所に到着し、結果待ちのスケジュールや、待機場所での過ごし方について簡単な説明を受け、その後入室。

検温器や、毎食の食事や水も提供されて、Wi-Fiも飛んでおり部屋にはテレビもあって、基本的には不自由のない生活が遅れます。

しかし、すぐに気づきました。この狭い空間から出られないことがいかに不自由であり、ストレスであるかに……!

旅の疲れもあるので、基本的には寝たりのんびりできましたが、あれ以上続くのは精神的にきつかったと思います。

(その後、日本でも感染拡大してくると、感染しても症状の軽いひとはホテル療養する流れが出てましたが、確実に精神的・身体的に辛そうだと思いました。)

 

帰国して3日目の朝(4月2日)には、検査の結果が陰性だと連絡をもらい、その待機場所を脱することができました。

 

★4月前半

お互いに感染リスクのある実家には帰らず、東京の一人暮らしの部屋に帰還しました。

久しぶりの日本、東京での生活。自宅待機中でもそれなりに楽しく過ごしました。

というのも、以下のツイートは重要です。

 

 

基本的には隔離生活を14日間行いましたが、生命維持に必要な買い出し、散歩程度の外出はお墨付きでしておりました。マスクもしているし、消毒用アルコールも持ち歩いて何かに触ったら必ず消毒していました。

 

桜の最後の季節だったので、散歩はいつも、とても癒しになりました。

 

 

 

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桜。もう散りかけの葉桜かな。

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水鏡に映える桜。

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近所のレモンの木。

 

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帰り道のヒメコブシの花。

 

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この日(4月4日)は、春うららかな暖かいお出かけ日和でした。

 

東京、ドイツとのギャップ:スーパーや公園でのソーシャルディスタンス

しかし、成田での検疫所で感じたような、いわゆる「密」な状況に、やはりドイツでのロックダウンとのギャップがあって、外出時にはかなり不安も感じていました。

 

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4月4日、帰ってきて最初の、文字通り自炊したご飯です。

買ってきたお米で炊いたご飯。

何より、大葉のおいしさ、フレッシュさに感動しました。 

ドイツでも、日本食料理屋さんはあるし、寿司は何度か、悪くないものを食べる機会があったんですが、やっぱり生魚で大事なのは鮮度だけじゃなく、薬味との組み合わせがたまらないのね。。

 

さて、検疫所の列よりも、正直スーパーでの混雑とレジ待ちの列のほうが酷かったです。

しかも、一般に検査はほとんどされていないので、だれが無症状の感染者なのかわからない状況で、これだけ混雑している空間にいるというのは、かなり不安、恐怖でした。

新大学生が上京して2回スーパーに行っただけでコロナらしき症状が出て、検査もしてくれないので不安だというツイートを見ましたが、ほんとうに東京で2回スーパー行っただけでコロナ感染なんて、余裕であり得ると思いました。

 

あと、道を歩いていて、いくら自分が注意して他の人から距離をとろうとしても、みなさんあまり距離を取ってくれないんですよね。

とくに怖かったのは公園を通るときに、公園でジョギングしてる人が、後ろからすごく近い距離で走り抜けていった瞬間でした。ウィルスを飛ばすような激しい呼気は、くしゃみやせきだけでなく、運動している人の荒い呼吸もそうであるとわかっています。後ろから走って近づいてくる人を、なかなか避けようがないじゃないですか。運動している呼吸はウィルス感染しうるということを知らないのかわかりませんが、とにかく運動する人は気を付けてほしいと思いました……。

 

また、買い物に行くと、いつもスーパーにはトイレットペーパーやマスクはすぐ売り切れだったり、「おひとり様〇点まで」と書いた張り紙なんかがありました。石鹸も、一番手ごろな値段のものは売り切れていたり。

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4月4日。ドラッグストアにて、マスク入荷未定のお知らせ。

幸い、私はマスクは箱で自宅にあり、マスク不足で困ることはありませんでした。近年、花粉症気味でよかった……(?)。

 

余談ですが、マスク不足で手作りマスクが流行っていたと思いますが、4月の後半ころ(時系列的には、隔離期間後)には祖母から、祖母の手作りマスクとアルコールウェットティッシュやお菓子を送ってもらいました(写真左)。そのあともう一度、購入した手作りマスクも(写真右)。

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そういえばマスクと言えば、例の国策布マスクですが、東京のこちらの自宅には5月中には届いていました。しかし、千葉の実家には、いまだに届きませんね。。。

 

また、帰国してしばらくはストックで保っていたトイレットペーパーが、隔離期間が終わるころになると、なくなりそうになっていました。

これはまずいということで、Amazonでポチろうとしたのですが、シングルのトイレットペーパーが1000円近くもして。もし今買いに行ってもなかったら1000円のトイレットペーパーを買おう、と覚悟を決めて、4月13日の深夜にディスカウントストアに行ってみたのですが……。行ったタイミングが悪かったかもしれませんが、なかったんですよね。絶望しましたが、もうAmazonで1000円近いトイレットペーパーをポチるしかありませんでした。しかも深夜のディスカウントストアでは、消毒用アルコールを見つけて、あ、今これあるんだ!と、買ったほうがいいかなと思い、2000円近い値で買いました。それが小さい入れ物だったらさすがに買わなかったと思いますが、500mlくらいの大容量だったので、例えばフランクフルト空港で見たような10ユーロもする小さな容器のアルコールと比べたら、ましにも見えたかもしれません。トイレットペーパーはともかく、今から思えばアルコールはしなくてもいい買い物だったのですが、その時はコロナ危機下の生活で、必要なモノが必要な時に手に入らない、という恐怖に実際に直面していたんですね。

 

東京、緊急事態宣言へ

ちょうど帰ってきたころが日本ではパンデミック直前で、感染拡大のピークをその後迎えることとなりました。

東京に来て数日が経った、4月6日。交通機関の減便が検討するというニュースを目にし、Twitterで話題にしたりもしました。

また、休業要請するなら休業補償を、という話はずっとありましたが、その流れで政府への意見募集にコメントする人なんかも多かったように思います。

 

そしてその翌日、4月7日の夜に、緊急事態宣言が出されました。

前回記事で出てきた一緒にフライトした友人、その人と隔離期間後に会う機会があって、その時に話したことですが、”ドイツと日本でパンデミックを2回体験しているようだ”と。3月末だとまだわからなかったことですが、大学はどこもオンライン授業になったので、実質どこにいても授業は受講可能。日本に帰ってきた意味があるかっていうとそこまでないとも言えるんですよね。生活リズムやお金の問題はありますが。そういう話をしました。

そういうことで、ドイツでのロックダウンを体験し、その後3月末に帰国、4月に入ったら1週間で緊急事態宣言が出され、結局5月まで続いたと。こういうスケジュールを過ごすことになりました。

 

緊急事態宣言が出されたにも拘わらず人出が多いとして、某吉祥寺がよく槍玉に挙げられていましたが、僕がおとずれたと訪れた時には大抵密集しているというほどではないが、商店街の道路はやはり同時に10人も歩けば距離が取りづらい程度で、不必要な外出や遊びに来てるというよりは、仕事帰りや買い出しの人なんだろうなーという印象でした。

以下、吉祥寺の様子です。

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4月6日。緊急事態宣言が出される前夜。

この後の写真に比べると、やはりまだ人出が多いように見えます。

 

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4月8日。緊急事態宣言から一日。

急に休業や在宅勤務、という訳にもいかないのでしょう、仕事帰りの人が多く見受けられます。

(あ、ちなみにこの日に、読んだ漫画についてこんなレビューと日記を書いています。

こちらから→どちらかと云うと只の日常。 — 日記とレビュー『マイ・ブロークン・マリコ』:生まれを選べないことの暴力性

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4月12日。

このころになると、多くのお店が閉まっていますね。

 

ちなみに、2020年夏のオリンピックを、コロナでもやるとだいぶ粘って、ようやく1年の延期が――それでも中止ではなくて、延期で、まだやろうとしているみたいですが――決まったのが3月24日ですが、私が東京に帰ってきたら、まだずっと街に東京オリンピックの飾りなんかがしてあるのが滑稽に見えるんですね。まあ、装飾を取り外す作業にも、感染リスクはあるわけで、急ぐ必要はないのですが、街に取り残されているのがこの国のコロナ危機とそれへの対応を象徴しているように見えるというか。

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4月6日。都内某所のスーパー。オリンピックデザインのTシャツ。

 

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4月23日。都内某所の街灯。オリンピックの旗。

――というように、日本に帰ってきても、コロナ危機はまだまだ続く状況でした。

 

住民票&在外選挙名簿からの移動問題

あとは、こんな疑問も。

 

役所での用事に関しては、自宅待機優先したほうがよさそう&問題ない、というリプライをいただいたので、結局役所に行くのは隔離期間後にしました。ちょうどこのころ、一定の水準以下の所得の人には、30万円が支給されるということで、その手続きで役所が混んでいるであろう時期でもありました。

ただ、日本への住民票移動を先延ばしにしてしまったために、その後決まった10万円の給付がもらえるかもらえないかの瀬戸際に、じつは今立たされています……。本来もらえるとは思うのですが、その確認を取りたくても給付金の電話窓口が混雑しすぎてて、電話つながらないんですよね。(現在そんな5月です。)

ちなみに、私は選挙権を在外に移すために、わざわざ日本から住民票を抜いたりしていました。短期間の海外滞在では、そこまでする必要も、ひともあまりいないようですが、手続きの流れや制度を知るにはいい機会となりました。在外選挙の名簿に登録されるというのは、海外にいる=住民票がないため、地方選挙以外、つまり国政選挙だけに参加できます。また、再び日本へ住民票を入れると、3か月後にその地方選挙に参加できるようになります。それまでの間は、在外選挙人の扱いなので、日本にいても国政選挙にだけ参加できるそうです。

 

自宅隔離中の過ごし方

積読をさらに積む

料理や散歩やSNSだけでもそれなりに楽しい日々ではあるのですが、コロナ危機下っぽい過ごし方、楽しみ方も実践しておりました。

4月7日、ちょっと本屋さんまで出かけて、漫画を買い込んできました。

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4月7日。買ってきた漫画。

さきほど、紹介したTumblerの記事にもその話は書きました。(どちらかと云うと只の日常。 — 日記とレビュー『マイ・ブロークン・マリコ』:生まれを選べないことの暴力性

非常事態が宣言されることとなったその日、僕はドイツに出かけて以来屋外に置かれていたままの自転車を久しぶりに引っ張り出し、空気の抜けたまま必死に自転車屋まで辿り着いて空気入れをシュコシュコし、夕方、西荻の本屋で積読に積み重ねる漫画を買って帰った。

あー、こうやって読み返すと、この時の僕にしか書けない文章だなーって感じです。。

 

ちなみに、『ルポルタージュ』も、おすすめです。写真は続編のほう。最初のシリーズは以前に読んだのですが、セクシュアリティ流動性や、新時代の恋愛・結婚形態がテーマの作品です。

 

東京の家には自分の本棚があるので、読む(積んでる)本がたくさんあったのは幸いでした。もともと自分の空間だし、隔離期間でもやることは一人暮らしの日常とたいして変わらなくて過ごしやすかったです。

ただ、Wi-Fiがないのがきつかった……。人とのつながりやゼミ、娯楽がほとんどネットに頼ってしまう状況で。

大学が入構禁止になっているので、Wi-Fiが使えないだけでなく、研究室においてある本や資料を回収することができない状況が今も(5月以降もおそらくしばらくは)続くのが、大学院生には少し辛いところです。

書籍があれば何とかなるところはありつつも、研究領域によっては、インタビューやフィールドワークができないとか、理系なら実験ができないとか、いろいろ不便があるかなとも思います。 

 

リモート映画鑑賞会

自宅隔離期間の最終日である4月14日は、弟と映画をそれぞれ見つつ、リアルタイムで感想をチャットするという方法で映画鑑賞をしました。

「翔んで埼玉」、弟と遠隔実況しながら観ました。(LINEはネタバレ) 地域格差というか差別がテーマなので、実は読み込んでいくと深いんだろうけど、それ以前にネタが豊富すぎて突っ込みきれない。 Amazonプライム入ってるひとは無料で… https://t.co/WFqD5btdiT 

 

オンライン飲み会

オンライン飲み会が行われるようになりましたね。

僕は、買い物行くたびに、コロナビールを半ダース買ってくるようになりました。ストックとして。コロナビールおいしいですし、余力を消毒用アルコールの生産に回すのは応援したくなりました。

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4月4日。生産中止になったコロナビール

あと、隔離期間の終わった翌日の15日には、こういう企画を開かせてもらったりだとか。

 

おわりに

というわけで、この4月の半ばにこの「コロナ危機下の一か月」の記事シリーズを書き始め、最後の記事を書きあげるのにだいぶ間が開いてしまいましたが、ようやく書き終えることが、今、できそうです。

5月には終えたかったので、意地で書きました。笑

日本に帰ってからエモいなと思うようなシーンが多くてたくさん写真撮ってたので、写真多めに。我ながらいい写真が撮れているなと。

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

 

 

2020年の5月、最後の日に。

永月いつか