九月の断章

日々の研究や日常から感じたり考えたりしたことを綴っています。

今年観た映画&良かった映画2023

みなさんこんばんは!
毎年恒例…ではなく、
いつもは映画ごとに断片的にツイートなどはしていましたが、初めての試みとなる《今年観た映画の記録》をつけます。
以下は、全部劇場で観たものです。
感想はメモ程度のものもありますのでご容赦を。めちゃくちゃネタバレしてる訳じゃないですが、ちらほらしてると思うのでご注意を。
興味を持った映画はあらすじを読むなど推奨です!

 

凡例

【】…カテゴリ

★…映画タイトル

 



【邦画編】

★『岸辺露伴、ルーヴルへ行く』
(7/11、池袋トーホー)


映像が美しい。
思ってたよりちゃんとホラー映画だった。
怪異の原因となるエピソードが深掘ってあってとても面白かった。


★『コナン 鋼鉄のサブマリン』
(7/4、池袋トーホー)


Twitterでずっと話題だったのでたまにはコナンも観てみるか〜と観に行ったやつ。
その時たまたま鬱だったので、気分転換になってよかった。
スピード感・情報量がすごいけど面白くてすごい良いエンタメ。博士のなんとかコーナーみたいなの笑った。

 

★『君たちはどう生きるか

(7/18)

 

良かった派。

ちゃんと児童文学をやっており、児童文学の文脈がわかるともっと面白そう。

友人が、インコが良かったって言ってた。

 

ツイート:

https://x.com/mit0919sahne/status/1681229453085806597?s=46&t=O7WeqYwyq735OIvoDygxTw



★『リバー、流れないでよ』
(初夏。7月半ばくらい?、たしか池袋トーホー)


めちゃくちゃ面白かった!!!
コメディ&タイムリープもの。
ちゃんと恋愛映画も入ってて王道?
恋の逃避行的なものがタイムリープの中でされていく展開とかも上手いしちょっとエモかったり。
パンフも夢中で読んじゃった。
めちゃくちゃ面白かった。



ファスビンダー傑作選】 (Bunkamura渋谷宮下)

★『不安は魂を食いつくす』
(8/1)

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初めてのファスビンダー作品。
非常に味わい深かった。
すごくシュールな感じにも拘らず、残酷なリアリティを描きだしてる。

ツイート:
https://x.com/mit0919sahne/status/1686351402619322368?s=46&t=O7WeqYwyq735OIvoDygxTw


★『マリア・ブラウンの結婚
(8/2)

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マリア・ブラウンという女性の活躍を描いた映画。
爆発オチなんだけども、なんだか全体として淡々としていて、「そういう女の一生」だったのか…という感じで見られて、そこまでショックではなかった。
タイトルに結婚、とあるけども、幸せな結婚生活は結局一瞬に過ぎなかったという皮肉的な感じもあるが、幸せな結婚生活のために奔走した女性の一生であり、これが彼女の結婚だったのだという感じ。かっこいい。


★『天使の影』
(8/2)

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映像などとても詩的な感じ。
それもそのはずで原作がファスビンダーの戯曲で、盟友ダニエル・シュミットによる映画化。
退廃した都市、そして理不尽なこの世界で生きる人間を描くという、ファスビンダーの世界観がよくわかるような感じ。

ツイート:
https://x.com/mit0919sahne/status/1686747848392499200?s=46&t=O7WeqYwyq735OIvoDygxTw



【変貌する浮遊都市(メトロポール) ベルリン映画特集】 (下高井戸シネマ)

★『時の翼に乗って ファラウェイ・ソー・クロース!』渋谷哲也アフタートーク付き
(3/23)

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名作『ベルリン・天使の詩』の続きとして作られた作品。
すごく愛せる駄作と言ったような周りからの評価だった印象(過言か?) つまり面白がれる。
ドイツ映画好きならきっと愛せるさ。


★『ベルリン・アレクサンダープラッツ』渋谷哲也アフタートーク付き
(3/24)


これは3時間超えのすごく長い映画なんだけど、とても名作だったから、映画館で見切ることができてよかった。
原作は小説。
映画は舞台を現代風にアレンジしたもの。
世の不条理は絶対にあるんだけど、その中で悪を犯してしまったときに、また更生して生きていくという男の話。
ヒロインが×××た時は、だから着いて行っちゃダメって言ったのに〜(伝わらない)って思った。
原作との違い(時代的な違いや置き換えだけでなく、フランシスとラインホルトのキャラクター性やその関係も含め)もあるので、面白かったら原作と映画を比較してみるのも一興。


★『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』
→後述



【今年のドイツ映画編】
今年2023年はドイツ映画が豊作でした。

★『ナチスに仕掛けたチェスゲーム』
(9/20、港南台シネサロン)


こちらはシュテファン・ツヴァイクの小説「チェスの話」を元とした映画。かなりアレンジされている模様。
大学院時代の指導教員曰く「今年のドイツ映画の中で、映画として一番面白い」作品。
エンタメとして、と言い換えても良いかもしれない。
ナチに対する反抗としてのチェスと、荒れる海の船上でのチェスのを重ね合わせているというスリリングな展開。
一回観ただけではけっこうわからないところがあったのだが、パンフレットを読んでわかったことがかなりあった。

個人的に面白かった歴史的ポイント
・ヴィーンにおける、民衆(労働者たちなど)と、ブルジョワ階級の立場の乖離
…民衆はナチに熱狂しているが、ブルジョワである主人公バルトークは、民衆のナチへの熱狂ぶりやユダヤ人差別とは距離を置いて見ている。

・ヴィーンは文化的・教養的であり、ドイツ(プロイセン)またはナチは、粗野で野蛮で暴力的あるという対比
…これは主人公バルトークが言っていることであり、そうした意味でオーストリア、ヴィーン、そしてヴィーン人の自分より、ナチを下に見ている。また、この対比は一貫してこの映画で語られている。


★『大いなる自由』
→後述



【ベスト3】

※厳密には順不同だが、あいまいに上から1位っぽい

★『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』

(3/22、下高井戸シネマ)

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ファビアンのラストにはとても衝撃を受けてしまって、一体この作品はどう解釈すればいいのかなと一晩考えた。
翌日知り合いと話して、こういう映画を観たと話したら、「永月は、最後はどうなって欲しかった?」と聞かれた。
一呼吸置いて、「ファビアンに、死んでほしくなかった」と僕は答えて、
僕はファビアンに生きてほしかったのかとその時気付いた。
切望してる未来に向かって、まだ希望はあって、一生懸命に努力したのに、善人だったためにまだ希望のあった未来がなくなってしまうなんてあんまりにも悲しかった。
ラストは、おそらく一般的な解釈であるような社会や時代の荒波を乗り越えられなかったんだと言ってしまえば、それまでだけど、そうやって一般化された大局的な比喩としてよりは、もっとファビアン個人の物語、あるいは悲劇?として、またモラリストとしての生き様を感じられた作品だった。そしてそれを受け止めた僕たちはどう生きていくか考えないといけないと思った。

 

とりあえず倫理観・誠実さのない今のカイッシャはやめよう。。。

 

ツイート:

https://x.com/mit0919sahne/status/1638549461193625603?s=46&t=O7WeqYwyq735OIvoDygxTw


★『大いなる自由』

(8/23、Bunkamura渋谷宮下)

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マクロな歴史物というより、ごく個人的なラブストーリーだった。

 

大学院の指導教員がパンフレットに書いているというのもあって観に行った作品。

ナチ時代に同性愛が法律で有罪とされてから、ドイツ敗戦後もその法律が残っていた。ドイツでは、なんと1996年まで上記刑法175条が有効だった。

そんな戦後のドイツで、何度も監獄に囚われながらも自らの愛を貫こうとする男が主人公である。

歴史ものかな?と思っていたら、と言うよりはラストで、これは壮大な、ごく個人的なラブストーリーだったんだ!という良い意味での驚き。

確かにナチの影響やゲイへの抑圧などの歴史的・社会的困難を取り上げていてそれがテーマではあるんだけど、それ以上にこれはごくごくミクロな、ある二人の間の愛の話である。

鑑賞後、ポスターに開いた穴の意味がわかる。



★『ソウルに帰る』

(8/15、Bunkamura渋谷宮下)

とても良かった。

朝鮮戦争の影響で、韓国では多くの子どもたちが国際養子に出された経緯があると言うことを、この映画で初めて知った。

フランス出身のフレディは、一人旅行の際に偶然韓国に、25歳で初めて降り立つことになる。

そこで知り合った同年代の韓国の若者たちに、親を調べてみたら?と言われ、もともと興味があったわけではないが、実の親探しを始めることとなる。

実の父親とは連絡が取れ、父親家族に会いにいくことになったり、後々韓国で働いたりと、思わず韓国での出来事に巻き込まれていくフレディ。

フランスで育って、韓国はたまたま生まれだっただけでなのに、韓国での人々に翻弄されていくとは、出生というアイデンティティの強固さに観ていて驚かされる。

そこには、自分で選んだわけではなくたまたま生まれただけなのに。

規範に囚われない自由で奔放な新しくクールな女性像を見せてくれる、思春期の揺れ動くフレディに目が離せなかった。

 

観た後に無性に誰かと話したいような、まだ帰るには物足りないような気持ちになって、渋谷の八月の鯨という、映画にちなんだカクテルを作ってくれるバーに行った。

バーテンさんと映画の話がいろいろできたのも良い思い出。

 

以上でした!

また来年も映画観るの楽しみです。

「何か」があった日の日記――沖縄戦「慰霊の日」と「想起のしかけ」

2022年6月23日のことだった。

「酒飲んでる時に戦争映画見せられるのは萎えるわ」

と飲んだ帰り道で、友人が言った。

その日訪れたバーでは、小さな店内の中、岡本喜八監督の映画『沖縄決選』がループ再生されていた――音量は絞られほとんどなく、字幕付きで、しかし確固たる存在感を持って。

(あ、そう思ってたんだ)

僕は沖縄戦の「慰霊の日」に『沖縄決選』を東京の公共性のある場で流すことは、非常に意義とセンスのある行為だと感じていたから、仲のいいはずの友人とは違う感覚を有していることが分かったのだ。もちろん感じ方が違っても、それを互いに認められるのはいい関係だと思って気に入っている。

 

バーを出て夜道を歩く中で出てきた友人の感想に違和感を受けたならば、果たして僕は「酒飲んでる時に戦争映画見せられるのは萎え」なかったのだろうか?

答えは、”よく考えるとNO”だ。

僕は「バーで戦争映画が流れている」という状況に対して、一方では社会的な意義や店主のセンスを感じながらも、同時にきっと友人と同じようにグロテスクなシーンや無責任な旧日本軍の選択や、その皺寄せを被る沖縄の人びとの苦しみ等々――枚挙に暇がないほどの苛酷な沖縄戦をテーマにした映像化を目の当たりにし、その事実を想起し、「嫌な気持ち」も感じていた。

いや、沖縄戦という歴史を前に、「嫌な気持ち」なしにいられる方が、どうかしているといった方が正解かもしれない。おまけに、むしろちゃんと映画の画面や内容を見ていないと「嫌な気持ち」は抱くことができないかもしれない。「嫌な気持ち」は、実はちゃんと考えたり感じたりした証なんだろう。

 

しかし告白すると、この記事を書こうと思ってちゃんと考えるまで、僕は友人のように「嫌な気持ち」を少し忘れかけ、知的な面白さや社会的意義の方を優位に感じていた。このような僕の感じ方について、触れておこう。

ここでは一旦、映画『沖縄決選』については、その評価には触れずに、単に”特に我々沖縄県外で暮らす人間に対して、沖縄戦があったことの認識を喚起し、議論を誘発するきっかけ・素材となるもの”と捉えることとする。

 

まずは、僕自身の特殊性――歴史学を専門的に学んできた、特に戦争に関することをテーマにしてきた、というバックグラウンドが一つに挙げられるだろう。したがって学問的な興味もあって、日常的に戦争について議論することには慣れているし、知的にも面白いと感じる。それは、酒があってもなくてもだ。

第二に僕自身の思想として、戦争の悲惨さや、自身に連なるものであっても加害の歴史には自覚的に目を向けるべきだと考えているので、それらに関わる事柄を公共性のある場で議論がなされること、自分自身がすること自体にも社会的な意義を感じている。

特に沖縄については本土の人間として、本土の沖縄に対する加害の歴史や、今も抱えている加害性を知らなければならないと以前から考えており、そのため沖縄戦のことはとりわけ重要度の高いトピックだと認識していた。

どうして沖縄についてこのような思い入れがあるのかというと、僕は歴史学を学ぶ中で、どのように教育に橋渡しするべきかを考え、歴史教育平和教育についても学んできた。平和教育学を学ぶ際には、沖縄を題材に勉強をしたこともあったからだ。沖縄に関して勉強すればするほど、現代でも「日本」という国家において本土(沖縄から見た他府県)が沖縄を抑圧し続けている構造に、本土でのうのうと暮らす側の人間として加担していることへのもやもやした気持ちを感じてきた。このもやもやは、まだはっきりとは言葉にはできないが、部分的に単語を上げるならば、罪悪感や、申し訳なさや、沖縄のへの平和を願う気持ちなどがある。そして現代におけるこの状況は、もちろん歴史的な厚み・過去とのつながりがあり、また、沖縄が本土の捨て石とされ地上戦の舞台にされた事実や、さらにそれ以前からあった植民地への差別心とも切り離せない。

(沖縄に対する本土の抑圧の構造という言葉遣いや、それの指す内容の吟味については、ここでは議論しない。が、僕が知っている限りでは具体的に、「日本」を防衛する名目で在日米軍基地の大半が、「日本」の国土でもほんの一部の沖縄に集中しており、そして住民が健康面や文化面での損ないを受けるなどの負担がかかりすぎていること、そして一つの県の(困っている人たちの)意向を、国政は汲み取らずに政治を進められてしまうことなどを「抑圧構造」だと見做している。この、国政を変えられないことがとりわけ本土側の人間として罪悪感を感じる部分である。気になる人は自分で調べたり勉強したり僕に直接聞いたり、あるいは僕と一緒に勉強してみてください、僕も勉強不足なので。)

 

以上の理由――知的な興味、テーマへの馴染み、社会的意義の感受等々によって僕は酒を飲みながら『沖縄決選』を観たのはとても面白い経験だと感じていた。しかしそのような自らの知的好奇心によって、僕はつい、友人にように素直にちゃんと「嫌な気持ち」を感じることを、忘れていた気がする。

そもそも酒を飲むときに何を話したり考えたりしたいかというのは人によって違っていて、僕は真面目な議論も歓迎だが、酒を飲むときは真面目ではいたくないという需要も当然飲酒にはあるのだろう。だいたい、僕だって好きな友人たちと美味しいお酒を飲んで楽しい気持ちになるのと、真剣に沖縄の人びとの苦しみに思いを馳せるのは、矛盾する心の営みだ。前述のように知的な興味深さ以外に、そこには「嫌な気持ち」も共存している。

 

しかし、くだんのバーでこの日『沖縄決選』が流れていたのにはやはり決定的な意味があったのだ。それは、6月23日であったということだ。

「慰霊の日」とは、太平洋戦争末期の沖縄戦での「旧日本軍の組織的な戦闘が終わった」とされる日であり、犠牲者への追悼や平和への祈りが各地で捧げられる日だ。

(参考:沖縄戦から77年「慰霊の日」 県主催の戦没者追悼式開かれる | NHK。2022年の「平和の詞」はこうだったのだ。)

”みんな普段考えないかもしれないけれど、6月23日くらいは、沖縄戦について思い出してみようよ”、というメッセージなのだ。

以前、何でもない日の日記という記事を書いたけれども、この日は、「何かがあった日」だったのだ。

ここから考えてみたいことは、「何かがあった日」に何かを考えるということの意味だ。

過去が日常に埋もれていき忘れられていく中で、人びとに特定の過去を想起させるためには、過去を想起させるために何かきっかけが必要だ。それは、ただのモノだったり、あるいは直接的に出来事の刻まれた記念碑だったり、事件の起きた現場としての土地だったり、出来事の起きたのと同じ日付だったり、何周年という時間の経過だったりする。ここでは以上の群をひとまず、「想起のしかけ」と呼ぶことにしよう。

 

友人は、酒を飲みながらじゃなかったら戦争映画を観たり沖縄戦について議論することは厭わなかっただろうか?

――おそらく、特に問題はなかったはず。すでに違う場で広い意味で戦争をテーマにした議論は交わした仲だから、それは知っているのだ。

しかし、無理やりにでもこのようなきっかけ(今回は6月23日という日付だ)がなければ、もしかしたらその友人とは生涯沖縄戦について共に想起したり議論したりする機会はなかったかもしれない。我々が酒を飲むときに「嫌な気持ち」になったとしても、今日のような想起の体験は、その嫌な感触と共にあの日あの場所で沖縄戦を想起したり議論したりしたという体験として、有意義なものだと僕は思う。

 

では、【特定の日に、嫌な気持ちになること】にそれなりに意味があったとして。

比較として、【いつも嫌な気持ちになること】と、【いつもは忘れていること】のそれぞれの意味や批判点についてて触れてみたい。

 

まずは【いつもは忘れていること】。

限定的なタイミングでしか重要度の高い記憶――例えば戦争――について思い出さないということは、普段から想起する機会がないということであり、こうした批判点も、再三言われてきた。

以前、

なんでもない日の日記――地震・差別・本 - 九月の断章

という記事を書いたが、これは実は「想起のしかけ」がなくてもなるべく普段から種々の問題に取り組もうという意図がなんとなくあったりなかったりしたのだ。

 

じゃあやっぱり普段から考えたり、まめに機会を作って考えたりするべきであって、急に特定の日だからって気持ちよく酒飲む場であるバーで血みどろの映画流すのには賛成しかねるという気持ちが湧くのも、ふつうの反応かもしれない。

 

やはり普段から考えないのには理由があって、つまりはそのテーマを考えることが、それなりに(おそらく多分に感情的に)コストの高い――つまり様々な「嫌な気持ち」が喚起させられる行為であるからだ。

 

でも、普段から考える機会を設けること――【いつも嫌な気持ちになること】について考えてみると、普段から「悲惨さ」や「残酷さ」を全面に出すような日本の平和教育のについては、以前から懸念点が提出されていることが思い起こされる。

その懸念とは、いつも「嫌な気持ち」になり続けていると、その気持ちを喚起するテーマを考えること自体を億劫にさせるのではないかという指摘だ。僕が実際に長崎出身の方から聞いたり、平和教育学を学ぶ中で知ったりしたことでもある。

もちろん子供のころに学校や地域の教育活動のなかで常日頃から戦争について教わるのと、大人になってから意識的に勉強の機会を取り入れるのでは、頻度や感じ方も異なるだろう。しかし、それを取り上げる時に何か居心地の悪さや嫌な気持ちを伴うようなテーマには、居心地の悪さや嫌な気持ちが感じられる理由がそれなりにあり、同時に重要性があることが多いと思われる。したがって、「嫌な気持ち」やそれを喚起する題材とはうまく距離感を保ちながら考え続けていくことが重要だと思う。

 

そして、このように感情的なコストのかかる行為だからこそ、その「何か」を忘れていたら、どうしても「想起のしかけ」によって突然「何か」を見せつけられる時はやってくるし、その際には、普段からそのテーマを考えていない(考えていなかった場合に)我々は感情的なコストを支払わざるを得ない。「想起のしかけ」によって忙殺される日常に突如として負の歴史が侵入し、我々のあいだで想起や意見の酌み交わしが生起することに、感情的なコストが発生するのは自然であり、むしろそのようなコストがかかることは歓迎したいと、僕は思う。

僕はこれまでも、感情的・身体的な体験が記憶と結びつくことをたぶん、けっこう、大事にしてきた。そしてこの年のこの日、友人との感じ方の違いから、むしろ、そのような想起や議論が「嫌な気持ちと一緒にあった」という体験そのものにも意味があるのではないかと考えるに至った。この日の「嫌な気持ち」や、友人との感想に違和感を感じた体験と、その時見たり聞いたりしたこと、話したり考えりしたことが一緒にあったという結びつきを、忘れずにいたいと願っている。

 

 

参考文献(参考にしたというよりも、本稿を書きながら思い起こした本たち):

・上間陽子『海をあげる』

新崎盛暉、松元 剛、前泊博盛、仲宗根將二、亀山統一、謝花直美、大田静男『観光コースでない沖縄――戦跡・基地・産業・自然・先島』

・竹内久顕『平和教育を問い直す 次世代への批判的継承』

 

 

追記。

かなり衝撃的な再認識をさせてくれるツイート。下記に載せたので、ぜひご一読ください。

そもそも6月23日にどんな意味があって、どんな意味がないのか?を我々は一度は考える必要があるだろう。

6月23は、牛島中将が自決した日であるから、組織的な降伏を放棄し、戦禍に軍人ではない沖縄の人びとを捨て置いた日というふうにも捉えられる。ますます気分が悪くなる。

さらに、ふつう日本では8月15日が終戦の日として認識され、これも「想起のしかけ」であり戦争に関することが想起されることが多い日だが、それは本土に暮らす我々にとっての話。沖縄戦が公式に終わったのは、9月7日であり、それまで沖縄では戦いが続いていたのだ。沖縄と本土での戦争の認識そのもののズレは、沖縄について知る中で考えなければならないトピックだろうと思う。

(参考:市民平和の日 | 沖縄市役所

余談だが、「終戦の日」という言葉は、日本の敗戦をごまかしている表現なので僕は好んでおらず、敗戦の日だなあと認識している。

 

 

掌編「あめの音」

この作品は2020年5月16日の「お題バトル」に投稿したものです。(初出:https://fuduki-ren.hatenablog.jp/entry/2020/05/16/142632

久しぶりに見返したら、急ぎ書いたままの誤字脱字等ありましたので、修正と共に若干の改稿を行いました。

 

とりあえずの文学系創作物置き場はこちら。ほかの作品もあります。https://novelee.app/user/6ob7cb5BKNbRFA68GsgqMFPZkim2

 

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 中学の同窓会が渋谷であった。中三の時のクラスと、となりの組との合同で企画されたらしい。土曜の夜、安っぽすぎないチェーンの居酒屋だ。

 10年ぶりか、と亜以子は呟いた。

 ふつうに浪人や留年なく4年制の大学に行き新卒で働き始めていたら、今年で会社員3年目になる年だ。同級生の半数ほどはこのコースを辿っている。中学卒業以来、家族で東京に引っ越し、中学のあった地元を離れることになった亜以子には、なんだか居場所がなく感じられた。
「あれ、亜以子じゃない?」馬鹿騒ぎする男性陣を机の向こう側に見やりながら一人でビールを飲んでいたら、後ろから声をかけられた。
「おお、泉っちゃん」
 泉はカシスオレンジのグラスを手に微笑んだ。中学のころ彼女とは音楽委員会で一緒で、泉は委員長だった。
「今何してるの?」
「今学生だよ。音大の」
 ええ、すごいねと通り一遍のリアクションをされた。……泉にそのリアクションをされたことにちょっとイラついて、ジョッキを飲み干しながら、泉は何をしているのかとふつうの会話をした。
「でも泉のほうがピアノうまかったじゃないか。いろいろ賞とったり、学校の行事や合唱祭でもいつも任されてて」
「実はさ、高校の時に辞めちゃったんだ〜。親が大学受験にうるさくてさあ。でも最近は少しだけまた弾くようになったんだよね。てかこのカシオレ甘っ」
 あっそう、と新しく来た徳利からおちょこに日本酒を注いだ。
「ふくいーんちょは?」
 あそこにいるよ、と泉が指したほうは、座敷の出入り口だった。
 ふくいーんちょのちいさい身体から生まれる躍動感のある指揮は素晴らしかったなあ、と思いを馳せつつ、今は大きくなったその大輝に声をかけた。
 おお久しぶり、とあいさつし合って、今は何をしているのかとい聞いたら、「学校の先生だよー」だそう。
「なんの教科?」亜以子は靴箱に寄りかかって、煙草に火をつけた。
「英語なんだ」
「部活とかは?」
「それが陸上部なんだよね」大輝は自嘲気味に笑った。
「ええ、君運動嫌いだったのに」
「そうなんだよね。俺も興味がなさ過ぎて、教えるのか苦痛だし、そのことが生徒たちにも申し訳なくてさ」
「音楽系の部活はやらないの?」
「まあ、あるんだけど。新人だしあまりそういうの言えなくてさ」
 ……そっか、と亜以子は煙を吐いた。
「残念だなあ」
 大輝は亜以子から一本煙草をもらいながら、そんなの子供のころの話でしょう、と苦笑した。
「馬鹿、私は本気で君たちの音楽に憧れてたんだ」
 ぎゅっと灰皿に煙草を押し付けて、鞄をとりに座席に戻ると、泉がどうしたの?と目を丸くした。
「帰る」
 靴箱を通りかかると、大輝が灰を落としていた。追いかけてきた泉と何か話している。
 靴を履いて外にずかずかと出ると、雨が降っていた。
 もうどうでもいいか、と思い歩き始めると、2、3歩も歩かないうちにびしょ濡れになった。自分の憧れのひとたちが、今はもうその才能や情熱に関係のないことをしているんだと思ったら、馬鹿なのは自分だけみたいで、悔しくて泣きそうになったが、涙も雨に紛れていった。

 ふと後ろから傘が差し出されて、雨が亜以子の涙を誤魔化すのをやめた。泉が追ってきたのだ。
「私のことはいいよ、泉が濡れるでしょう」
「……私車だから、送っていくよ」
 と言うので、亜以子は泉の車に乗り込んだ。
「車買ったんだ?」どう見ても新車だった。泉は、「そう~、満員電車嫌だからね」と嬉しそうに言った。
 あ、飴食べる?と、続けて泉は居酒屋の会計にあるミントの強い飴をくれた。ミントの刺激が鼻の奥をつんと刺した。
 峠道に差し掛かってワイパーが一層激しく、窓についた水滴を散らす。
 強い雨音のなかで、泉の声がやけに響いた。「私も大輝も、亜以子の音楽づくり大好きだったよ。きっといっぱい勉強して、今はもっと素晴らしいんだろうな」
 いつか聴きに行くから、と泉は微笑んだ。亜以子は泉の微笑を認め、それから何もかも濡れたまま目を閉じた。少し疲れた。窓をたたく雨と車の揺れるリズム、そして懐かしい泉の声に、カラコロと亜以子のミント味のからだは揺蕩った。

なんでもない日の日記――地震・差別・本

なんとなく、このタイミングは見返したときにきっと意味があるだろうという気がして、久しぶりに日記を書きます。

地震

あと1ヶ月で東日本大震災から10年、というこのタイミングで昨日、大きな地震がありました。千葉にいた僕もかなり長いゆれを感じ、怖くなって、とっさにリビングの大きな机の下に逃げ込んだ。

地震の多発する国なのに、311を経験してなお、未だに地震のたびに原発は大丈夫か心配しなくてはいけないなんて、と嘆く声や、311の福島の損害賠償が間もなく10年の「時効」を迎えようとしていることの思い出させる呼びかけをTwitterでは散見して、未だに311の傷は癒えていないし、原発の問題も先送りにされ続けているという現状をあらためて認識をしました。

修論の軌跡

先月となる1月20日、締切日に修論を提出しました。案の定ギリギリの提出となったが、提出は提出。書き上げて出せたことがまず素晴らしい。

もうすぐ口頭試問があるが、すこしずつ準備を始めています。

ちなみに、修論を書き上げるまでの軌跡を吊り下げたツリーがこちら↓

 

2月に入って、車の教習所にも通い始めました。

今日ははじめて車を実際に運転した(!)のですが、かなり怖かった…...。よくあんな凶器をみんな乗りこなしているよな。というのが最初の感想。

今日は良く晴れて暖かく、帰り道、梅が咲き誇っていました。

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白梅

本屋

僕の住む町には本屋がない。

したがって、実家にいるときにはいつも自転車や電車で隣の町まで足をのばして本屋を訪れます。

昨日は自転車で本屋に行ってきました。

 

買ったのは、

斎藤幸平『100分de名著 カール・マルクス 資本論

小野正嗣『100分de名著 フランツ・ファノン 黒い皮膚・白い仮面』

岸政彦・柴崎友香『大阪』

 

あと、予約していた

『写真が語る 千葉市の100年』(高いけど、祖母と一緒にみようかと思って・・)

など。

 

ファノンのことは知らなかったのですが、先日、2月12日に開催されたリチャード・J. バーンスタイン『暴力 手すりなき思考』の公開研究会にて紹介されていて、どのような人物なのか・どのような著作があるのか知る機会がありました。

『暴力』においては、ファノンの著作としては『地に呪われたる者』が分析の対象とされていて、これは「抑圧―被抑圧の構造の打倒」を語る・考えるものとして読むことができるものだそう。(背景には、アルジェリア独立戦争において、ファノンがアルジェリア民族解放戦線FLN)に協力したことがあります。そこでファノンが目指したものは、抑圧からの「解放」だったといいます。)

こうした話を聞いて、ファノンには大変興味を持ちまして――というのは、例えば沖縄と本土の関係で特に感じるように、抑圧や差別の構造に加担している辛さを感じるところが僕自身にはあるのですが――、『地に呪われたる者』に先立つ著作『黒い皮膚・白い仮面』にも関心を持ったわけです。

まだ読んでいないわけなのですが、『黒い皮膚・白い仮面』は、フランスの植民地のマルティニーク島出身で、いわゆる黒人かつ医学生で白人社会のエリートだったファノンが、矛盾した自己の精神・身体の分析を試みた著作であるそうです。

植民地主義や人種差別が問題にされるのですが、昨年のBlack Lives Matterの運動と厳然たる人種差別の存在を目の当たりにした今、読み考える価値のある著作と言えそうです。というわけで読みます。

 

話は冒頭の、昨日起きた地震に戻ってきますが、人種差別と言えば「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という関東大震災のころと変わらぬ流言が、昨日の地震の後にTwitterで流れていて、まさかと思わされました。関東大震災は1923年だからもうすぐ100年経つというのに……。面白半分でやっているのかもしれませんが、このような繰り返しは許されません。そもそも当時の犠牲や差別を知っていたら、そのようなことが軽々しく言えるものではないという歴史的な理解も、それが現代においても差別を煽動する発言であるという理解もないものかと思います。

 

 

まだまだ立ち向かわねばならないことは、多くあるようです。

 

読んでいる本

そんなこんなで本を着実に積んでいる僕ですが、今現在「読んでいる」(積んでない)本を書き留めて、終わりにしたいと思います。

 

今読んでいる本のラインナップは、

 

國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』

池上俊一動物裁判 西欧中世・正義のコスモス』

古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン

 

です。

 

そういえば、2月に入ったくらいからTwitter上では、

以上のような論争が湧き起こるなかで(タルムードやシオンの議定書を読め発言に絡まれる歴史研究者もいたような……↓(魚拓))、

ナチズムに関しては専門家に絡まずにまずは本を読んで勉強してください/新書くらい読めるでしょ/新書も読むの難しくない?、みたいな議論の流れがあったように思いますが、その読書をめぐる議論のなかで一番僕が共感したツイートがこちらでした。

 

うん。これはまさに、僕の読書や積読に対する姿勢を言語化してくれたようなツイートですね。読まなくても本は、その本があるだけで、自分が過去に関心を持ったことや、その本を手に入れた経緯や場所にまつわる記憶などを思い起こさせてくれる存在でもあるのです。しかも関心ややる気が湧き起こったらいつでも読める状態にあるというのも、本をちゃんと手元に置いていることの素晴らしい利点です。

これからも積んだり読んだりと、本とは、楽しく長く、付き合っていく友なのです。

レビュー:サンメリーダの森には孤独の風が吹く――出崎統監督ブラック・ジャックOVA第5話

※注意※ネタバレありです。ネタバレされたくない方は先に視聴してから読んでみてください。

youtu.be

 

第5話「サンメリーダの鴞(ふくろう)」を見て。

今までのOVAの各話の中でも、第5話「サンメリーダの鴞」は、(僕にとって)ストーリーもずば抜けて素晴らしく、情緒溢れる回だったので、レビュー記事を書きたくなった。本当に、間違いなく傑作。

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上記リンクから引用

(ほかにこれまでで特に良かったシーンといえば、第3話の終盤、麻薬に脳みそが溶けるブラック・ジャックと、その難所を切り抜ける描写……。)

 

OVAは原作を元にしたオリジナル作品だそうだが、原作に似たシチュエーションがあるとすれば、たしか、教会の神父が、瀕死の(あるいは死んだ?)女性から赤ん坊に脳みそをスプーンで掬って移した話があったような気がする。(*Youtubeの動画概要欄を見たら、インスパイアを受けたのは原作の「過ぎさりし一瞬」だそう。過去に読んだことはあるが、この記事を書くに当たっては未確認。)

ラストシーンの諦めに寂しさが混じったようなブラック・ジャックの表情を見て、この話は「孤独」がテーマだったか…...という読後感とともにエンディングテーマを聴いた。
しかし、OVAはテーマソングも激アツだ。とくにオープニングテーマ「記憶の君へ」は孤独を歌っていたので、この記事を書くために見直したらとてもエモかった。

 

レスリーの孤独

冒頭は、夢に怯える青年レスリーの診察室での独白から始まる。
「怖い夢ばかり見るんだ……
それに、とてつもなく大きな孤独感がいつも襲いかかってくる。わかりますか先生、不安や孤独感というのは、僕にとっては犬や猫のように、現実の存在なんです。わかりますか、孤独ってやつがこの手で触れるほどの寒々しい精神状態が!」
そう切実に訴えるレスリーに、そっけなく安定剤の処方を言い渡し、追い払う医師。その対応を受けて、レスリーは言い捨てる。
「神なんて、この世にはいやしねえさ」

 

これはレスリーの孤独。不安のまま、誰も助けてくれない、理解してくれないという孤独。しかし、物語の終盤、夢の正体がわかったことで、その孤独は安心感に変わることとなる。さらに冒頭レスリーがそんなものいやしないと言い放った「神の存在」も、この話のキーとなるのである。

 

 ブラック・ジャックの孤独

たしかこれは、例のベースになっているであろう原作「過ぎさりし一瞬」に出てきたところかもしれないが、この物語はブラック・ジャックの孤独の物語でもある。
この話は、珍しく患者の依頼ありきではなく、ブラック・ジャック自身の意志で物語が進む回だ。赤ん坊だったレスリーに天才的な手術を敢行した医師に会いたいというブラック・ジャックの想いが物語を進める動機であり、その想いは孤独が生んだものであろう。孤独だからこそ、同じ境遇の、あるいは自分以上の孤高の天才医師に会いたいと思ったのだ。
しかし、ブラック・ジャックは自身の手でその医師を瀕死の怪我から救うことはできず、結局彼の手術の様子をその目で見ることは叶わなかった。
一人で患者の大怪我と戦い、しかし、その努力も虚しく結局ブラック・ジャックの孤独は満たされぬまま……ものすごく、孤独なシーンだ。ラストシーンでは、孤独な一人の医者に寄り添うピノコの存在もまた大きく感じることができる。
また、そんなブラック・ジャックが神にも縋りたくなったというモノローグも、あまりに強い孤独感と、医療という常に命と向き合わねばらならない限界的な生業を務めることの重さを照射しているように感じる。

 

エルネストの孤独

また、ブラック・ジャックが救えなかった、レスリーに手術を施した医師・エルネストもまた孤独の人である。彼は、27年間も地下で一人、人を救い続けた医者だ。いや、見方によっては、孤独ではないと言えるのかもしれない。彼はもう何年も普段人とは話すことはないが、それは、死んだサンメリーダの住人たちのたましいと会話しているからだ。

 

 

ひとたびの正体を突き止めたことで、不安と孤独が一人ではないという安心感に変わったレスリー
孤独のまま、孤高の天才医師であり続けるブラック・ジャック
死んだ者たちと対話し続けたエルネスト。

 

この物語は、各人の孤独のあり方を描くことで、「孤独とは何か」を問うているのかもしれない。

 

★他の見どころ★

ピノコの役回りとナレーション

台詞とはまた違った声音がいいし、ちょっと大人っぽいピノコという感じがする。
この回のピノコの役回りは、ナレーションも含めて非常に大きい。

ピノコレスリーともブラック・ジャックともつながりを持たせることで、ピノコは物語の展開の潤滑油としての役割を実に見事に果たしている。(これまでの各話のピノコの存在感のなさと比べたら大違いだよ……)

 

サンメリーダの子守唄

このちょっとした挿入歌が物語の文字通り鍵となっていて、その後の展開を開くものとなっている。歌自体の完成度が素晴らしく高く、その抒情的なメロディはサスペンスの強烈なスパイスとなっている。

ピノコレスリーが歌うのも良いし、ドラマティック。

 

サンメリーダという舞台装置/教会の神父

内戦の激戦区だったというサンメリーダは、舞台装置として物語の悲劇性を高める。
また、教会の神父は、見る者に一度「裏切った」「悪者だったのか」と思わせておいて、彼自身も政府軍に裏切られ、その政府軍の独裁的・軍事的な態度を民主主義の名の下に非難する姿は、実はそう簡単に善悪で物事を割り切れるものではないということを物語っている。
このサンメリーダという舞台の悲劇性だけでなく、その政治性はリアリティを高め、この物語を面白くしていると思える。

 

 ★

 

サスペンスの展開も、各キャラクターの立ち回りも、一瞬の隙も無駄もない、ほとんど完璧な傑作。

というわけで、この話は本当に素晴らしくて大好きです。

よかったら皆さんもご視聴あれ。

 

日記とレビューの過去記事

◆ 岩井勇樹のダンス漫画と小樽ワイン

 →これを読んで、コンテンポラリーダンスとバレエに興味を持った。

 

◆『マイ・ブロークン・マリコ』:生まれを選べないことの暴力性

 →ボロ泣きした思い出。

 

やっていることが古のインターネット職人ですが、よろしければ。

 

雑然とした部屋でも背景と同化せずに、zoomやGoogle Meetでバーチャル背景を使おう!【Snap Camera使ってみた】

今年は梅雨がなかなか明けず7月に入っても涼しかったのに、8月になってすっかり暑い日が続きますね。僕は蝉の声を聞きながらそうめんを茹でたり、すいかを齧ったりしていると、日本らしい夏を過ごしているなあと感じます。

 

さて、このCOVID-19危機下で、大学ではオンラインで講義やゼミが提供されるようになりました。僕個人としては授業の質自体には問題はないと思っているのですが、やはり授業以外の活動領域がないのは、大学生にとっての「大学生活」ないし「キャンパスライフ」の魅力が半減しているのではないかとも思います。サークル活動や課外活動ができないのもそうですが、人との出会いや、たまたま面白そうな授業やイベントと出会う機会など、「偶然の機会」が減っているのは、大学生にとってだけではない機会損失ではないかと感じています。

 

そんなこんなで大学の授業だけでなくあらゆるイベントや活動がオンライン上で行われるようになりましたが、ここで僕にとって一つの問題が発生しました。

 

スタンディングデスクを設置

先日、スタンディングデスクを設置してみました!

じつはそれまで、和室のふすまを背景に、座る姿勢で作業をしていたのですが、やはりこれは腰に来るし姿勢に悪いのではないかと思い、ふすま前の部屋の手前ではなく、和室の奥にスタンディングデスクを設置したわけです。

座りっぱなしであったり動かなかったりすることが身体に悪いというは知られていると思いますが、スタンディングデスクの商品ページなどを見ると、動かないという点では立ちっぱなしが良いというわけではなく、立ったり座ったりと動作を増やすことで健康のリスクを減らせると言われています。

 

部屋のレイアウト替えの弊害

しかしスタンディングデスクにしたはいいものの、部屋の奥の高い位置にパソコンを設置すると、オンラインミーティングの際には部屋全体が背景として映ってしまいます

悪いのはオンラインに人を閉じ込める状況なんだ!雑然とした部屋が移ろうが背景なんぞどうでもいい!と、しばらく僕はそのように開き直っておりましたが、

特定の参加者しかいない授業やミーティングならそれでもいいとはいえ、不特定多数の人が参加するミーティングや説明会では、ありがたいことにプライバシーの配慮として、顔出しする際にはバーチャル背景を設定することを推奨してくれるところもあるわけです。

そこで僕も、zoomでバーチャル背景の設定がうまくいくか試してみたのですが、これが全然うまくいかない!ふすま前で暮らしていた時はまだよかったのですが、雑然とした部屋全体が映る状態でバーチャル背景を設定すると、背景と同化してしまうのです。

 

zoomのバーチャル背景の仕組み

zoomのバーチャル背景は色の違いを利用して背景と人物を区別しているため、青や緑の背景を用いることで、オレンジや赤系統の色をしている人間を背景色と区別してバーチャル背景を設定してくれているのです。

つまり、実際の部屋の背景色が、人物の色と被らない青や緑、白でなかったり、雑然として一色にまとまっていなかったり、とくに暖色系であった場合、人物の色とバーチャル背景が同化してしまいます。

 

zoomではバーチャル背景に合成する背景色を任意で選ぶこともできるわけですが、人物色と被っていると、最悪このような事態になります。

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宇宙。

 

Snap Cameraとは

そこでgoogle検索でたどり着いた解決策がこちら。

dekiru.net

このSnap Cameraは、パソコンのカメラに背景やフィルターの設定を施すことができるプログラムだそう!(パソコン用のアプリなので、パソコン限定の技です。)

フィルターによっては、きゅうりに変身したり、眼鏡をかけることもできます。

しかもSnap Cameraを使えば、もともとバーチャル背景を設定できないGoogle Meetなどでも、バーチャル背景にできるのです。

 

Snap Cameraを使ってみよう

設定の手順

さっそくSnap Cameraを、上記の記事を参考にインストールし、使ってみました。

手順としては、

①Snap Cameraをインストール

②Snap Cameraでフィルターや背景を設定

③使いたいテレビ通話ツールのカメラ設定からSnap Cameraを選択

と、大まかに以上の3ステップを踏むことになります。

どのテレビ電話ツールでも、手順はほぼ同じです。

 

ステップ③については、使用するテレビ通話ツールのフロントカメラ・リアカメラの切り替えボタン(カメラ設定)にインストールしたSnap Cameraという項目があるはずなので、それを選んでカメラをONにすれば、Snap Cameraに映った映像が連動して、ほかのツールでも映されます。

なお、Snap Cameraの映像を連動させるには、Snap Camaeraを起動させた状態でほかのツールのミーティングに参加する必要があります。

 

使った感想

使ってみた感じでは、色ではなく人物の姿形を切り取っているようなバーチャル背景の映され方です。

Snap Cameraの背景合成の仕組みがzoomの色の取り出し方とどう違うのかはわかりませんが、zoomのバーチャル背景では人物と色が混同されてうまくいかなかった部屋の場合でも、うまく人物の形を切り出してバーチャル背景を適用してくれました。

”work from”などのキーワードでSnap Camera内を検索すると、さまざまなフィルタが見つかりますが、僕のおすすめはMarilyn Dick氏による「Work from home」というタイトルの背景フィルタです。

 

また、zoom以外にも、SkypeGoogle Meetmicrosoft Teamsでも使用できることを確認しました。

次の写真はGoogle MeetでSnap Cameraのバーチャル背景を適用した映像を使用したものです。Snap Cameraを設定して映し出される映像は、いずれのビデオ通話ツールを用いても同じものになります。

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Work from home by Marilyn Dick

 

Snap Cameraを導入したおかげで、いつでもどんな部屋でもきれいなバーチャル背景を映してくれるので、カメラをONにする際の心理的負担がすこし減ったように思います。

これなら場所を変えても実際の部屋の背景を気にすることなくバーチャル背景を使うこともできます。

このアプリの導入は、個人的には大成功でした。嬉しい!

 

というわけで、Snap Cameraは大変おすすめできます、というお話でした。